世界・日本の経済恐慌解説

『日本バブル発生の原因を解説』財テクで東京地価・株価高騰の好景気

以前に以下の4記事で「経済の仕組み」を解説してきましたが、今回はその応用編という意味でも勉強になる事例として「日本のバブル崩壊」を取り上げ解説していきたいと思います。

あなたはよく、両親などから「日本のバブルは凄かった」という話を聞きませんか?

私自身も父親に幼少期から、

「バブル期は良かった」

「あの頃は狂喜乱舞だった」

などと聞き、これからを生き抜く、必須知識だなと感じ興味を持ち勉強をし、しっかり知識としました。

ですので今回の記事はその培った知識を生かして、

「日本のバブルを正確に理解したい」

「日本のバブル崩壊の解説を通して経済に関する知識を向上したい」

という方向けに、前編はバブル発生の流れと要因、後編はバブル崩壊について解説していきたいと思います。

そもそも日本のバブルが起きた理由はなんだったのか?

日本のバブル経済が起きた理由は一言でいえば『日本の株価と不動産価格が高騰する「仕組み」が構築され、人々が狂気の如くお金稼ぎに走った』からです。

ここからは順を追って話をしてきます。

1974年に第一次オイルショックにより、世界中で凄まじいインフレが起きました。トイレットペーパーの買い占めに走る主婦の話とか、あなたも聞いたことがあるのではないでしょうか?

一応要約を引用しましょう。

第一次オイルショック

第一次オイルショックは、「第1次石油危機」とも呼ばれ、1973年の第四次中東戦争に端を発する石油の供給危機をいいます。

これは、1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発したのを受けて、10月16日に石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国が原油公示価格を大幅に引き上げ、10月17日にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油生産の段階的削減を決定し、さらにイスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定したことにより生じた石油の供給不足と価格急騰、およびそれに伴う深刻な経済混乱のことを指します。(1960年代のバレル当たり2ドル、直前価格の3ドルから12ドルへ急騰)

引用:第一次オイルショック

この問題を解決するために、日米独が強調し、財政刺激政策を行いますが、その5年後、1979年に第二次オイルショックが起き、不況が加速します。

第二次オイルショック

第二次オイルショックは、「第2次石油危機」とも呼ばれ、1979年のイラン革命に端を発する石油の供給危機をいいます。

これは、イランにおいて、パフラビー朝を倒してイスラム共和制を樹立した革命が起こったことにより、イランでの石油生産が中断して産油量が減り、また1978年の石油輸出国機構(OPEC)による値上げ決定で石油価格が急騰し、石油輸入国に経済的混乱を与えた出来事を指します。

当時、日本は、イランから大量の石油を購入していたことから需給が逼迫しましたが、第一次オイルショックでの学習効果、省エネルギー政策の浸透、企業の合理化効果などによって、経済面では比較的軽微な影響で済むことができました。なお、石油の値上げは、第一次の頃ほど長引かず、またイランも石油販売を再開したことから、数年後には価格下落に転じました。

引用:第二次オイルショック

オイルショックの話は別記事で詳しく論じたいと思いますのでここはサラッといきます。

アメリカはオイルショックの影響で物価が高騰し続けていたため、大胆な金利政策を実施することになりました。

以下は当時のインフレ推移です。1980-81年が異常ですね。

出典:INTERNATIONAL MONETARY FUNDのデータから筆者が作成

アメリカは1979年当時のドルの政策金利は平均11.2%、1981年には20%を超える金利を設定しました。金利が高くなるということは、世界中の人々がドルを持って預金して利息で稼ごうと考えますよね。

その結果、ドル買いが進み、ドル高が急速に進む結果となりました当たり前ですが、ドルが高くなるということは他の通貨はドルに対して安くなります。

ここで漸く日本の話になりますが、日本の通貨の価値を考えると「ドル高⇄円安」という形になりますよね。

当時の日本は、トヨタ自動車を筆頭に海外への自動車輸出を積極的に展開していました。

円安になるということは、アメリカ国内での「輸入車」の値段は下がり、安くなります。

例えば為替レートが、

「1USD=1,000円」

の超円安であれば、

100万円の自動車が、1,000USDで売れるということですね。

1,000USDといえば近年の為替レート1USD=100円と考えれば10万円くらいです。

実際に1980年台初頭の為替レートは最高1USD=259円でしたが、このように円安に触れることでアメリカ国産の自動車は価格競争でボロ負けするわけですね。

日本産の自動車が売れに売れたわけです。これは自動車だけではなく、他の商品の輸出も同様のことが起きます。

円安に進めば為替益も出るのでまさに日本の産業絶好調!状態なんですね。(細かい話をすると為替予約の評価益などの話なども出てきますが省きます)

加えて、アメリカから輸入で日本に入ってくる商品は値段が反対に高くなってしまうので、アメリカから日本への輸出は絶不調ということです。

あまりにも日本が有利なので、これを「貿易不均衡」とされました。

具体的な数字に起こすとアメリカの貿易収支は、

  • 1981年:+70億ドルの貿易収支
  • 1985年:▲2,120億ドルの貿易収支

となり地獄絵図ですね。アメリカが怒るのも無理がありません。

世界の自動車産業の核となる地・デトロイトではアメリカの自動車メーカーの労働者が日本車を叩き壊して回るという事件も多発していました。生活が懸かってますからね。

アメリカの逆鱗に触れてしまった日本という国

さて、現代でも「世界の王」であるアメリカはこのような貿易不均衡に対してどのような施策を打ってきたのでしょうか。

激怒しているわけですから、日本を戦争から守ってあげているという関係性も後押しして、厳しい要求をジャイアンがのび太を顎で使うかのごとくするわけですね。

例えば以下の通りです。

アメリカ
アメリカ
輸出量を減らして国内でもっとビジネスをしなさい。特に自動車の輸出減らしなさい。
アメリカ
アメリカ
もっとアメリカからの輸出を増加させるために優遇策を考えなさい。
アメリカ
アメリカ
外資受け入れを積極的にしなさい。ぶっちゃけると日本で我々にビジネスをさせなさい。

外交が苦手な日本はもちろん全ての要求を呑みました。そして1985年、NYC・マンハッタンのプラザホテルで、

  • 西ドイツ財務相のゲルハルト・シュトルテンベルク
  • フランス経済財政相のピエール・ベレゴヴォワ
  • アメリカ財務長官のジェイムズ・ベイカー
  • イギリス蔵相のナイジェル・ローソン
  • 日本の竹下登蔵相

という先進5ヶ国の豪華メンバーにて開催された会議で主に日本に対する「為替レート安定化」の合意が為されました。これを「プラザ合意」と言います。

要するに、円のドルに対する為替レートを円高にするために、アメリカは各国の偉い人=仲間を集めて日本に合意させたということです。

1USD=259円まで円安となっていた為替レートは150円(40%高)を割り込むレートとなりました。従来のような日本の貿易黒字は保てなくなりますね。

しかしながら、すでに日本は円安で異常なほどに儲けており、手元にある程度は潤沢なキャッシュがあり、ここで日本の海外ブランドなどの購買熱が一気に高まりました。(長くは続きませんでしたが)

日本経済は低迷、政策金利の引き下げを実行

40%も円高が短期間で進むわけですから、輸出は伸び悩み、内需も海外製品の競争力が増すことになります。日本の経済成長は停滞します。

ここで日本政府の「偉い人」はどう経済低迷を打開するかを考えることになります。

そこで思いついたのが、中央銀行、つまり日本銀行の政策金利を引き下げることにしました。金利を下げれば、お金を借りて事業を始める人や、既存の事業を拡大する人も増えて経済が活性化するという考え方ですね

政策金利に関しては別記事で詳しく解説していますのでそちらを読んでみてくださいね。

1985年には公定歩合が約5%だったものが段階的に下がり、1986年には約3%まで引き下げを実行しました。

しかし、思惑通りにはいくものではないです。別記事でも経済の動きを左右する要素に「狂気」と「感情」があると話をしました。

ある程度までは経済の動向は予測できますが、プラザ合意当時はオイルショック、急激な円高などイベントが多すぎたため、国民感情を読み解くのはほぼ不可能です。

上記のイベントの反動で、原油価格の低下、輸入価格も下がっており、日本の物価が上昇することはありませんでした。

しかし、その代わりに「株価」「不動産価格」が急騰しました

当時の日経平均株価は1985年に13,000円をつけていましたが、1986年には18,000円までアゲにアゲました。ここで一発儲けた人があとを絶たず「ジュリアナ東京」は毎日活況だったわけですね。とりあえず投資すればお金が降ってきていたのです。

そんな日本が活況の中、1987年に「ブラックマンデー」が起きます。(ブラックマンデーについてはまた別途詳しく記事にしようと思います)

ブラックマンデーは、「暗黒の月曜日」とも呼ばれ、1987年10月19日(月)にアメリカ合衆国(米国)のニューヨーク株式市場で起きた、史上最大規模の株価の大暴落のことをいいます。(本名称は、大恐慌時の1929年10月24日(木)に起きた急落が「ブラックサーズデー(暗黒の木曜日)」と呼ばれたのに倣ってつけられたもの)

引用:ブラックマンデー

ブラックマンデーを受けて、世界中の株価が暴落し、日本も例外ではありませんでした。

日本もピンチなわけですね。株価急落ということは、大企業の株が売られ、大企業の次なる革新を追い求める研究開発や新たなビジネスの創出がキャッシュ不足でできなくなりますし、現状維持すら大変です。

ここで日本銀行が再登場です。金融緩和にて企業がお金を調達しやすくしたわけです。例によっては政策金利の引き下げをさらに実行しました。

日本のバブルが遂に勃発・特金ブームで膨らむバルーン

しかし、それだけでは日本経済は改善の光が見えず、ここで大蔵省はさらに頭をひねることになります。

株価の下げも止まらないので二の矢となる施策が必要となりました。

そこで大蔵省が実行したのは「特定金銭信託」、略して「特金」(とっきん)です

特定金銭信託・特定金外信託

主として有価証券への運用を目的とし、お客さま(委託者)の個別具体的な運用指図に従って、信託銀行が決済執行および事務管理を行なう、単独運用の金銭の信託です。

お客さまにとっては、自ら運用判断を行いつつ、三菱UFJ信託銀行の有価証券管理システムや永年培ってきた資産管理ノウハウをご利用いただくことにより、大幅な事務の省力化を図ることができます。

引用:MUFG・特定金銭信託/特定金外信託

仕組みは以下の通りです。複雑でわかりにくいですね、じっくり見なくても大丈夫です。

引用:MUFG・特定金銭信託/特定金外信託

要するに、信託銀行や証券会社を利用して「株式や不動産に投資させる」ことでお金を集めようということです。これを「企業向け」に実行しました。

そして特金を通して出た利益に対しては、納める税率を低くし、さらに特金を利用することで銀行に預ける預金金利以上のリターン(利回り保証)を約束するというものでした。

このようなサービスに人気が出ないはずもなく1985年の特金を通しての投資実行額は約9兆円、1989年には約40兆円となりました

ちなみにこの特金は今は正式に違法です。

営業特金の契約を取る競争が激化すると「ニギリ」(不法な契約締結)による利回り保証が実行されるようになります。集めたお金の運用はまた別世界の話であり、高い利回りで手数料を荒稼ぎしても引用に失敗すれば一瞬で吹っ飛ぶようなビジネスですからね。極めてリスクが高いのです。

山一証券という会社を覚えていますでしょうか。

引用:https://qbiz.jp/article/75355/1/

山一証券ではまさに「ニギリ」を乱発し、1兆8千億円の特金を集めるという圧倒的な営業力を見せました。

1990年の決算ではなんと2,336億円の過去最高の経常利益を叩き出すも、日本バブルはあっけなく崩壊し、集めた特金は1,300億円の含み損になっていたと報道されていました。

さらに「大口顧客優遇」の損失補てんという完全コンプライアンス違反の暴挙に出てしまった故に、社会問題となり、ここでようやく大蔵省は1990年に特金の禁止を通達しました。

投資家にとっては信託銀行などに運用を「丸投げ」しておけば良く、投資顧問料の節約、預金より大きなリターンが出るとして人気でした。

上記の通り、1990年までの日本のバブル期は証券取引法が正式に定められていなかったので、山一証券を始めとした金融機関に青天井にお金が集まってしまったんですね。

この時期の特金による収益の得る手法を「財テク」と呼んでいました。財務のハイテク化だそうです。懐かしい言葉ですね。

「目つぶってても儲かる」

と盲信した人達が運用のリスクを鑑みず、次々と特金を活用しました。

ここで上記で述べたようなアメリカの圧力もあり、外資金融も次々と日本市場に参入し、メガバンクなども預金金利を自由にコントロールできるようになり、為替の売買も実行できるようになったという要素もバブルにはありました。

日本国債や先物市場もこの時期に始まりました。意外と歴史、浅いですよね。金融市場が大幅に活性化し、金融元年とも言える状況でした。

ワラント債と財テクのコンボでバブル最高潮へ

上記で述べた通り、当時は特金は「目をつぶっていても儲かる」ものだったのです。

そこで、企業は特金をフル活用するために、海外の投資家からもお金を集め始めました。

ワラント債」(新株予約権付社債)ですね。

新株予約権付社債(しんかぶよやくけんつきしゃさい)

株式を一定の条件で取得するための権利である新株予約権を付与された社債のこと。新株予約権とは、株式を一定の条件で取得するための権利のことで、新株予約権の行使があると、社債部分の金額が、そのために払い込まれたとみなされる。新株予約権の行使によって発行される株式数や、新株予約権を行使できる期間などは、あらかじめ決められている。

引用:新株予約権付社債

要するに、日本企業の社長が海外の投資家にお金を借りて、利息に加えてその際に両者で決めた価格での株式の「予約」を約束することですね

海外の投資家からすれば、企業の株価が1,000円から2,000円となっていても、1,000円で株式が買える契約締結しておけば2,000円の株を1,000円で買え、その差額が自動的に含み益になるということですね。利息+株式評価益の「ダブル利益」となるわけです。

当時は日本株は特金の影響もあり急騰していたので、海外の投資家もこれまた「目をつぶっていても儲かる」と思っていたのです。ワラント債は円に替えて(スワップ)企業へ貸し出しが実行され、円高も進むと思われていたので為替益も考えれば「トリプル利益」ですね。狂気です。

日本企業はこうして海外の投資家から集めたお金を、さらに高い利回りを得られるよう金融機関と特金で「ニギリ」、利益を出そうとしたのです。

私が勤めていた総合商社のような中抜きを考えていたわけです(笑)これを繰り返せば企業の株価も上昇し、企業は資金が増え、次なるビジネスも始められ、良いことだらけでした。「ビッグウェーブ」という言葉が合うのかもしれません。歴史に残るマネーゲームです。

こうして儲けが儲けを呼び、日本全体の「支出」と「所得」は増えるばかりでした。バブル景気ですね。「『経済の仕組み』を極限まで噛み砕いて解説してみる(vol.3)」の最後に話をしましたが、「所得」が「生産力」を超えては経済が停滞するということをここで思い出しておきましょう。

不動産価格の高騰はどれほどのものだったのか

上記までは株価の話をメインにしてきましたが、では不動産はどうだったのか?という話をしていきます。

日本バブル期の不動産価格の上昇については別記事「日本高度成長期の不動産価格と比較した『新興国不動産投資』の魅力」でもすでに触れている通りですね。

バブル当時の日本の不動産価格の上昇は以下の図の③の部分に該当します。

引用:地価にみる日本の今

凄まじい勢いで昭和61年(1986年)辺りから価格上昇していますね。昭和31年代の上昇までとはいきませんが、前年同期比でここまで上昇し続けてるのは異常です。商業地の伸びが大きいですね。

バブル当時は不動産投資に乗っていない経営者は「時流を読めない」とされ、金融機関から融資を受けるには不動産をどれだけ保有しているかが大きな指標になっていました。今のご時世で考えると有り得ないですね。

このような世論となってしまったため、企業は融資を受けるために不動産投資を実行、この動きが加速し不動産価格はまた上がるという循環が生まれていったのです。

そしてこの頃から1億円を超える分譲マンションが流行り出し、この頃時流に乗りお金儲けに成功した人たちはこぞって「億ション」住まいになりました。今で言う「タワマン」ですね。

需要があるものですから、億ション開発に三菱地所や三井不動産も躍起になっていた頃です。

また、土地を公共の公園などに提供していた地主も土地の価格が上がりまくっていたので返還を要求し、一山当てようという人で溢れました。

激動の時代ですね。歓喜に舞う人々の毎日の生活が慌ただしいのが目に浮かびます。そういう訳で、バブル期には96を数える公園が消えたという現象が起きました。

また不動産オーナーはリフォームを施し、高値で売却を試みるも住人がいると手が出せないので地上げ屋を雇って無理やり住人の立ち退きもしてたんだとか。狂気ですよね。(2回目)でもそれくらい凄かった、バブルは。

残る一つの疑問、なぜ人々は不動産を次々に買うことができたのか?

不動産価格の上昇は、まさにブームであり、マンションや商業施設を開発すれば次から次へと売れる状況だったからということは間違い無いのですが、銀行にも貸し出しには限度がありますので、そもそも購入者はどのように資金を調達できたのか?という疑問にブチあたりますね。

それは「BIS規制」の「抜け穴」が大きく影響しました。まずはBIS規制を理解しましょう。

BIS規制(びすきせい)

銀行の財務上の健全性を確保することを目的として、1988年7月にBIS(Bank for International Settlements=国際決済銀行)の常設事務局であるバーゼル銀行監督委員会で合意された、銀行の自己資本比率規制のこと。「バーゼル規制」「バーゼル合意」ともいう。銀行として備えておくべき損失額をあらかじめ見積もり、それを上回る自己資本を持つことを要求している。

具体的には、銀行の自己資本を分子、リスクの大きさを分母とする比率(自己資本比率)が国際的に活動する銀行には8%以上であることを求めており(海外拠点を持たない銀行は4%)、日本では1993年3月末から適用された(バーゼル1)。

引用:BIS規制(びすきせい)

要するに、銀行は、銀行自身の自己資本比率を定められた利率を守った状態ではないとお金の貸し出し、また預金受け入れを行ってはならないという国際決済銀行に決められたルールのことですね。資本金の「12.5倍」(8%の資本を維持、100%÷8%)までの貸付までしか許可されませんでした。

理由としては、自己資本を守らずお金の貸し出しを進めると、貸し倒れした時に他の預金者に迷惑が掛かるということですね。

しかし、このバブル期の日本にはこの「BIS規制」の抜け道がありました。それは、銀行が株式を投資していた場合、その含み益の45%までを資本金に50%までみなし算入できるという悪魔のルールです。危なっかしいったらありゃしないですね。

しかし、なんとバーゼル合意時にこの「株式の含み益の資本算入」という日本の主張は認められてしまいました。バブル期は株価もうなぎ昇りであり、国際決済銀行(BIS)も大丈夫だろう、と思ったのでしょう。

これはとどのつまり、株価が下がった瞬間に日本が沈没するということなのですが、当時は銀行はお構いなしに貸付を実行、不動産の購入が進み不動産価格も上がり、上記で述べた通り銀行が融資する際には企業の保有している不動産を担保にし、借入を積極的に行いビジネスを加速していきました

これが「無限ループ」で進んだ訳ですね。1985年から1990年の間に銀行の貸出残高はなんと96兆円の増加。半数が企業が「副業」と言う形で不動産ビジネスで儲けるための融資でした。

1988年には日本全体の企業の保有する不動産含み益が430兆円と推測されています。1990年には日本の不動産評価額は総額2,000兆円を突破し、アメリカ全体の不動産評価額の4倍を達成。アメリカの面接は日本の25倍ありますから、日本の不動産市場の熱狂ぶりがわかります。

この頃、三菱地所がロックフェラーセンタービルを当時のレートで2,200億円で買収したりしていましたね。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」も頷ける内容です。真珠湾攻撃を受けた国が相手の国のシンボルとなるビルを買収しているのですから。

総括

ここまでが、なぜ日本のバブルは発生したのか?という部分を解説してきました。簡単にまとめると以下の通りです。

  • オイルショックによりアメリカはプラザ合意を経てドル高を進めるも日本の輸出増加でアメリカ国内経済が停滞。
  • 日本の輸出が減少、経済が低迷し政策金利を下げる施策を打つも効果が見込めず、二の矢、三の矢として「特金」「ワラント債」を活用。
  • 株価、不動産価格が暴騰し日本にキャッシュが集まる。
  • 上記の流れがエンドレスループで回り日本経済が活性化しアメリカのロックフェラーセンターを1企業が買収するほどの規模になった。

 

次回は後編として日本のバブルはなぜ崩壊したのか?について解説していきたいと思います。

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